青山宗勝
凡例 青山 宗勝 | |
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 永禄4年(1561年) |
死没 | 不明 |
別名 | 助兵衛(通称) |
官位 | 従五位下・修理亮 |
主君 | 丹羽長秀→豊臣秀吉→秀頼→丹羽長重 |
氏族 | 青山氏 |
父母 | 父:青山伊賀守正直[1] |
妻 | 長清院(丹羽長秀の娘) |
子 | 忠元、長勝 |
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青山 宗勝(あおやま むねかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。越前国丸岡城主。官位は従五位下・修理亮。
略歴
永禄4年(1561年)に誕生。はじめ丹羽長秀に仕えたが、天正13年(1585年)に長秀が死去すると、豊臣秀吉の家臣となり、黄母衣衆に列せられ、越前国に2万石を与えられた。天正15年(1587年)には九州平定に従軍する。伏見城普請でも功績を挙げたことから、慶長3年(1598年)に越前丸岡に4万6000石と丸岡城を与えられ、従五位下、修理亮に叙任する。叙任と同時期と推定されるが、豊臣姓を下賜されている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、東軍に属した前田利長と戦ったが、そのために戦後に改易された。
その後は旧主・長秀の子である丹羽長重に仕え、子の長勝が丹羽姓を許されるなど、一門格の扱いを受けた。子孫は二本松藩の重臣として幕末まで続いている。
- ^ 柴田家滅亡後の丸岡城主に新説 青山宗勝の父正直も歴任か