松平勝義

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松平勝義
時代 江戸時代前期
生誕 慶長7年(1602年
死没 寛文10年11月17日(1670年12月29日
別名 源三郎[1]
戒名 道確[2]
墓所 京都府宇治市の萬福寺[2]
官位 従五位下因幡守豊前守[1]
幕府 江戸幕府 大番
主君 徳川家光家綱
氏族 久松松平家康俊
父母 父:松平勝政
兄弟 勝義久野宗成室、宮城豊嗣正室
正室:安藤重能[2]
勝則、勝忠、土屋知義、勝光、勝直、
勝郷、勝秀、木村清真、勝以
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松平 勝義(まつだいら かつよし)は、江戸時代前期の大身旗本官位従五位下因幡守豊前守

1635年、8000石の知行地を下総国に移され、香取郡多古を居所とする交代寄合となった。以後松平家は廃藩置県まで10代236年にわたって多古を治め、3代目の時に大名に列する(多古藩)。

生涯

慶長7年(1602年)、松平勝政の長男として、伏見で生まれる[3]

寛永9年(1632年)12月6日に従五位下・因幡守に叙任される[1]。寛永12年(1635年)、駿府城代を務めていた父の死去により、11月9日に家督と8000石の知行地を継承[1]。この際、知行地8000石[注釈 1]上総国武射郡下総国香取郡に移され[1]旗本寄合席に列して香取郡多古(現在の千葉県香取郡多古町)を居所とした[1]。寛永14年(1637年)に初めて知行地に赴く暇を得ており、以後例となった(交代寄合[1]

承応2年(1653年)9月27日、大番頭に任命される[1]。寛文5年(1665年)1月2日、大坂城の守衛を担当していた際、落雷があり天守が炎上した[1]。その最中、勝義は水野正盛と共に危険を顧みず天守に登り、扇の馬印下知状を持ち出した[1]。このことが将軍にも伝わり、目付稲生正倫を通じて賞詞が伝えられた[4][3]

寛文10年(1670年)11月17日、守衛中に死去した[2]。没年69歳[2][注釈 2]。長男は父に先立っており、家督は次男・勝忠が継いだ。

系譜

特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[2]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。

  • 父:松平勝政
  • 母:不詳
  • 正室:安藤重能
    • 長男(1):松平勝則
    • 次男(2):松平勝忠(1623-1680)
  • 生母不明の子女
    • 女子(4) - 神尾元清の妻。
    • 三男(5):土屋知義 - 土屋知貞の養子。
    • 女子(6) - 岡部忠豊の妻
    • 四男(7):松平勝光 - 幕府に出仕し別家を立てる。
    • 五男(8):松平勝直 - 幕府に出仕し別家を立てるが無嗣断絶。
    • 女子(9) - 木下重定の妻。
    • 六男(10):松平勝郷 - 幕府に出仕し別家を立てる。
    • 女子(11) - 篠山資門の妻
    • 女子(12) - 粟津元隅(東本願寺家司)の妻
    • 七男(13):松平勝秀 - 幕府に出仕し別家を立てる。孫の勝尹勝房(勝以の子)の養子となり本家を継ぐ。
    • 八男(14):木村清真 - 木村清治の養子
    • 九男(15):松平勝以(1661-1728) - 兄・勝忠の養子となる。
  • 養子女
    • 女子(3) - 実の孫(勝則の娘)。川口平宗に嫁す。

脚注

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注釈

  1. ^ 『多古町史』では近江国内にあった知行地とする[3]。『寛政重修諸家譜』では、勝政が駿府城番になった際に駿河国内ですべて8000石を知行したと記している[3]
  2. ^ 65歳ともいい[3]、この場合は慶長11年(1606年)生まれとなる。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.279、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.285。
  2. ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.280、『新訂寛政重修諸家譜1巻』p.286。
  3. ^ a b c d e “通史編第四章/第三節 久松松平氏と多古藩/二、多古松平氏歴代”. 多古町史(ADEAC所収). 2022年2月25日閲覧。
  4. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五十三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.279-280、『新訂寛政重修諸家譜1巻』pp.285-286。

参考文献

  • 寛政重修諸家譜』巻第三百九十二
    • 『寛政重修諸家譜 第三輯』(国民図書、1923年) NDLJP:1082717/149