ヴァーツラフ2世 (ボヘミア王)

ヴァーツラフ2世 / ヴァツワフ2世
Václav II. / Wacław II
ボヘミア国王
ポーランド国王
ポーランドの画家ヤン・マテイコによるポーランド王ヴァツワフ2世としての肖像画
したがって王冠、法衣、王杓はポーランド王国のもの
在位 ボヘミア王:1278年 - 1305年
ポーランド王:1300年 - 1305年
戴冠式 ポーランド王:1300年8月 グニェズノ大聖堂

出生 1271年9月17日
ボヘミア王国プラハ
死去 1305年6月21日
ボヘミア王国、プラハ
王太子 ヴァーツラフ3世
配偶者 ドイツ王女グタ
  ポーランド王女リクサ(エリシュカ)
子女 一覧参照
王朝 プシェミスル朝
父親 オタカル2世
母親 クンフタ・ウヘルスカー
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ヴァーツラフ2世(16世紀)

ヴァーツラフ2世チェコ語: Václav II.1271年9月27日 - 1305年6月21日)またはヴァツワフ2世ポーランド語: Wacław II)は、プシェミスル朝ボヘミア(在位:1278年 - 1305年)及びポーランド(在位:1300年 - 1305年)。

父はボヘミア王とオーストリア公を兼ねたオタカル2世(大王)、母はその2番目の妃であったスラヴォニア公ロスティスラフの娘でハンガリーベーラ4世の孫娘クンフタ

生涯

父が神聖ローマ皇帝の座を巡ってルドルフ1世と争い、1278年にマルヒフェルトの戦いで戦死したため、ボヘミア王位を継承した。しかし、所領の多くをルドルフ1世に奪われ、ボヘミア王国モラヴィアの継承しか許されなかった。また、王位を継いだ頃は幼少であったため、しばらく政治は重臣の手によって行なわれていた。

1290年から親政を開始する。ヴァーツラフ2世は父の時代の国力を取り戻すため、銀貨プラハ・グロシュ)や銅貨による貨幣統一を行なった。

同年、ポーランド大公プシェミスウ2世はヴァーツラフ2世にクラクフ公国の支配権を委ね、自身はポーランドの他地域における支配権獲得に専念して国内を統一し、1295年ポーランドに即位した。しかしプシェミスウ2世は翌1296年に暗殺され、後継者を巡ってヴァーツラフ2世はクヤヴィ公ヴワディスワフ1世と対立した。ヴワディスワフ1世はポーランドの王権の強化と統一を望んだ農民・騎士・聖職者に広く支持されたが、実質的な王位選定権を持つクラクフ公領の有力貴族はピャスト家の支配強化を嫌い、ヴァーツラフ2世を支持して国王に推挙し、ローマ教皇の特許を得た。1300年、ヴァーツラフ2世はポーランド王ヴァツワフ2世として即位した。

しかし、ポーランドにおいてはあくまで外様の形式上の君主であり、実質的な権力はクラクフの貴族たちが握っていた(ヴワディスワフ1世はヴァーツラフ2世との対立を解消し、クラクフ公領を離れて王国内の諸領邦の統一に専念した)。ヴァーツラフ2世は后であったユッタ1297年に死去したため、プシェミスウ2世の一人娘リクサ・エルジュビェタ(チェコ名エリシュカ)と1303年に再婚した。

1301年ハンガリー王家が断絶すると、母方の祖母アンナがアールパード家のベーラ4世の王女であったことから、ハンガリー貴族に迎えられてハンガリーの王権を委ねられ、同年に息子のヴァーツラフ3世をハンガリー王として即位させた。しかしハンガリーにおいてもプシェミスル家は外様に過ぎず、支配できたのはハンガリー貴族たちから譲られた一部の領地のみで、実質的権力は貴族が持っていた。

それでもプシェミスル家はボヘミアに加え、ポーランドとハンガリーの君主を兼ねることになった。プシェミスル家の勢力拡大に対してハプスブルク家ドイツ王アルブレヒト1世(先妻ユッタの兄)は危機感を抱き、婚姻外交によってプシェミスル家の切り崩しを画策するようになる。もともと病弱であったヴァーツラフ2世は、アルブレヒト1世の対応に苦慮する最中の1305年、病のために死去した[1]。后エリシュカはアルブレヒト1世の息子ルドルフと再婚した。

1306年、ヴァーツラフ3世が暗殺され、プシェミスル朝は断絶した。同年、ドイツ人のケルンテン公ハインリヒ6世がボヘミア王に即位した(戴冠はしていない)。そこへアルブレヒト1世は軍を率いてプラハを占領し、息子ルドルフをボヘミア王ルドルフ1世として即位させた(戴冠せず)。1307年、ルドルフ1世は反対者をホレショヴィツェの要塞に追い詰めて包囲したが、その最中に赤痢で没した。ハインリヒ6世はボヘミア王に復位した(戴冠せず)が、1310年ルクセンブルク家ヨハンに追放され、ヨハンがボヘミア王に即位した。

ポーランドはヴワディスワフ1世がポーランド大公に即位、1320年に王位を獲得した。ハンガリーではバイエルン公オットー3世が即位したが短期間で退位、代わってカーロイ1世が即位してアンジュー家の世襲となった。

子女

ドイツ王ルドルフ1世の娘ユッタ1285年に結婚。4男6女をもうける。

ポーランドプシェミスウ2世の娘リクサ・エルジュビェタ(エリシュカ)と1303年に結婚し、一女をもうける。リクサはヴァーツラフ2世の死後、ハプスブルク家のオーストリア公ルドルフ3世(ボヘミア王ルドルフ1世)と再婚する。

  • 七女:アネシュカ(1305年 - 1337年) - ヤヴォル公ヘンリク1世と結婚

脚注

  1. ^ 王の埋葬に際して、女性賛美の歌人として有名なフラウエンロープは、王の死を悼む詩を歌っている。- Lexikon des Mittelalters. Bd. IV. München/Zürich: Artemis 1989 (ISBN 3-7608-8904-2), Sp. 2098.
先代
オタカル2世
ボヘミア
1278年 - 1305年
次代
ヴァーツラフ3世
先代
プシェミスウ2世
ポーランド
1300年 - 1305年
次代
ヴァーツワフ3世
ボヘミアの旗 ボヘミア君主 ボヘミア王国の紋章
プシェミスル朝(ボヘミア公)
  • ボジヴォイ1世850/71-894/5
  • スピチフニェフ1世894/5-905/15
  • ヴラチスラフ1世905/15-921
  • ヴァーツラフ1世921-929
  • ボレスラフ1世929-967
  • ボレスラフ2世967-999
  • ボレスラフ3世996-1002
ピャスト朝(ボヘミア公)
  • ヴラジヴォイ1002-1003
  • ボレスラフ4世1003-1004
プシェミスル朝(ボヘミア公)
  • ヤロミール1004-1012
  • オルドジフ1012-1033
  • ヤロミール(復位)1033-1034
  • ブジェチスラフ1世1034-1055
  • スピチフニェフ2世1055-1061
  • ヴラチスラフ2世1061-1092(王:1085-1092)
  • コンラート1世1092
  • ブジェチスラフ2世1092-1100
  • ボジヴォイ2世1100-1107
  • スヴァトプルク1107-1109
  • ヴラジスラフ1世1109-1117
  • ボジヴォイ2世(復位)1117-1120
  • ヴラジスラフ1世(復位)1120-1125
  • ソビェスラフ1世1125-1140
  • ヴラジスラフ2世1140-1173(王:1158-1173)
  • ベドジフ1172-1173
  • ソビェスラフ2世1173-1178/9
  • ベドジフ(復位)1178/9-1189/92
  • コンラート2世1189-1191
  • ヴァーツラフ2世1191-1192
  • オタカル1世1192-1193
  • インジフ・ブジェチスラフ1193-1197
  • ヴラジスラフ3世1197
  • オタカル1世(復位)1197-1198
プシェミスル朝(ボヘミア王)
  • オタカル1世1198-1230
  • ヴァーツラフ1世1230-1253
  • オタカル2世1253-1278
  • ヴァーツラフ2世1278-1305
  • ヴァーツラフ3世1305-1306
メンハルド朝
  • インジフ・コルタンスキー1306
ハプスブルコヴェ朝
  • ルドルフ1世1306-1307
メンハルド朝
  • インジフ・コルタンスキー(復位)1307-1310
ルケンブルコヴェ朝
ハプスブルコヴェ朝
ポジェブラト朝
  • イジー1458-1471
フニャディ朝
  • マティアス1世(対立王)1469-1490
ヤゲロンキ朝
  • ヴラジスラフ・ヤゲロンスキー1471-1516
  • ルドヴィーク1516-1526
ハプスブルコヴェ朝
  • フェルジナント1世1526-1564
  • マクシミリアン1世1564-1576
  • ルドルフ2世1576-1612
  • マティアス2世1612-1619
ヴィッテルスバホヴェ(ファルツ)朝
  • フリードリヒ1世1619-1620
ハプスブルコヴェ朝
  • フェルジナント2世1620-1637
  • フェルジナント3世1637-1646
  • フェルジナント4世1646-1654
  • レオポルト1世1655-1705
  • ヨゼフ1世1705-1711
  • カレル2世1711-1740
  • マリエ・テレジエ1740-1741
ヴィッテルスバホヴェ(バヴォルスコ)朝
  • カレル3世・アルブレフト1741-1743
ハプスブルコヴェ朝
ハプスブルスコ=ロートリンスカ朝
  • ヨゼフ2世1780-1790
  • レオポルト2世1790-1792
  • フランティシェク1世1792-1835
  • フェルジナント5世1835-1848
  • フランティシェク・ヨゼフ1世1848-1916
  • カレル3世1916-1918
ポーランド王国旗ポーランド君主ポーランド立憲王国旗
伝説的な首長
半伝説的な首長
ピャスト朝
プシェミスウ朝
  • ヴァツワフ2世1296–1305
  • ヴァツワフ3世1305–1306
クヤヴィ・ピャスト朝
  • ヴワディスワフ1世ウォキェテク1306–1333
  • カジミェシュ3世ヴィエルキ1333–1370
アンジュー朝
  • ルドヴィク1世1370–1382
  • ヤドヴィガ1382–1399
ヤギェウォ朝
  • ヴワディスワフ2世ヤギェウォ1386–1434
  • ヴワディスワフ3世ヴァルネンチク1434–1444
  • カジミェシュ4世1447–1492
  • ヤン1世オルブラフト1492–1501
  • アレクサンデル1501–1506
  • ジグムント1世スタルィ1506–1548
  • ジグムント2世アウグスト1548–1572
選挙王制
初期
  • ヘンリク・ヴァレジ1573–1574
  • アンナ1575–1586
  • ステファン・バートリ1576–1586
ヴァーサ家
  • ジグムント3世1587–1632
  • ヴワディスワフ4世1632–1648
  • ヤン2世カジミェシュ1648–1666
中期
ザクセン家
レシチニスキ家
  • アウグスト2世モツヌィ1697–1706
  • スタニスワフ1世1706–1709
  • アウグスト2世モツヌィ(復位)1709–1733
  • スタニスワフ1世(復位)1733–1736
  • アウグスト3世1734–1763
ポニャトフスキ家
ワルシャワ公
  • フリデリク・アウグスト1世1807–1815
ロマノフ朝
  • アレクサンデル1世1815–1825
  • ミコワイ1世1825–1855
  • アレクサンデル2世1855–1881
  • アレクサンデル3世1881–1894
  • ミコワイ2世1894–1917
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