フリーデリケ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット

曖昧さ回避 この項目では、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の妃について説明しています。メクレンブルク=シュトレーリッツ大公カール2世の妃については「フリーデリケ・カロリーネ・ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット」をご覧ください。
フリーデリケ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット
Friederike Luise von Hessen-Darmstadt
プロイセン王妃
在位 1786年8月17日 - 1797年11月16日

出生 1751年10月16日
プロイセン王国の旗 プロイセン王国、プレンツラウ
死去 (1805-08-14) 1805年8月14日(53歳没)
プロイセン王国の旗 プロイセン王国ベルリン
埋葬 プロイセン王国の旗 プロイセン王国ベルリン大聖堂
配偶者 プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世
子女 一覧参照
家名 ヘッセン=ダルムシュタット家
父親 ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ9世
母親 ヘンリエッテ・カロリーネ・フォン・プファルツ=ツヴァイブリュッケン
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フリーデリケ・ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット(Friederike Luise von Hessen-Darmstadt, 1751年10月16日 - 1805年8月14日)は、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の2番目の妻で王妃。

生涯

ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ9世と妃ヘンリエッテ・カロリーネの次女として生まれる。伯父フリードリヒ2世の王太子に立てられていたフリードリヒ・ヴィルヘルムは、従妹であるブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家のエリーザベト・クリスティーネと結婚して1女をもうけていたが、1769年に離婚し、同年のうちにフリーデリケと再婚した。

2人の間にはフリードリヒ・ヴィルヘルム3世ら8子(うち1人は誕生後間もなく死亡)が生まれたが、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は「でぶの女たらし」とも「肉の機械」とも呼ばれる漁色家で、大勢の愛人との間にさらに8子をもうけている。

子女

  • フリードリヒ・ヴィルヘルム(1770年 - 1840年、後のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世)
  • フリーデリーケ・クリスティーネ・アマーリエ・ヴィルヘルミーネ(1772年 - 1773年)
  • フリードリヒ・ルートヴィヒ・カール(1773年 - 1796年)
  • フリーデリーケ・ルイーゼ・ヴィルヘルミーネ(1774年 - 1837年、オランダ王ウィレム1世妃)
  • 子(1777年 - 1777年)
  • アウグステ・クリスティーネ・フリーデリケ(1780年 - 1841年、ヘッセン選帝侯ヴィルヘルム2世妃)
  • フリードリヒ・カール・ハインリヒ(1781年 - 1846年)
  • フリードリヒ・ヴィルヘルム・カール(1783年 - 1851年)
先代
エリーザベト・クリスティーネ
プロイセン王妃
1786年 - 1797年
次代
ルイーゼ
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